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2009年10月

風変わりな『セザンヌ解釈』

 修了論文で12人の画家を追っている。ルネッサンス以来の絵画は19世紀後半の印象派の時代から変革を起こす。セザンヌ、マチス、ピカソを経て抽象絵画のモンドリアンへ、いわゆる絵画の逸脱の歴史が始まって行く。当然論文の第一章第一項はセザンヌになる。

『リンゴのある静物』セサ゜ンヌ

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 56才の時、初の個展を開いた。遅咲きの人である。その過激な革新性のために当時の人たちになかなか認めてもらえなかった。革新的と言えば坂本竜馬がいる。この人勝海舟に出会い、早い時期から当時流行した尊王攘夷思想に無理があることを知っていた。土佐の仲間たちの前ではこの考え方をおくびにも出さない。彼らは尊王攘夷で凝り固まっていたからだ。「いってもわからないやつに黙っておこう」と思ったのだろう。竜馬ずるいのである。

 セザンヌは性格からかそういう立ち回りができない。自分の信ずるところを作品によって堂々と主張し、当時の多くの人たちから非難される。不器用な天才というべきか。その作品はくめども尽きぬ深さがある。現在さまざまな解釈がされ、その書籍も多い。

 池袋で青空古本まつりが開催されている。

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 古本屋めぐりは探していないのに必要な本に出会う楽しみがある。ここで『セザンヌ解釈』シドニー・ガイスト著に出会う。セザンヌの絵を性的な角度から論じ一大スキャンダルになった本だ。こちらはすでにセザンヌの項を書きあげてマチスに入っているところ。もう少し前にこの本に出会っていたらと歯ぎしりする。2万字が目安の論文に2人の作家ですでに一万字を割いてしまった。書き足す余裕もない。まして今はマチスで頭はいっぱい、セザンヌに戻っている場合ではないのだ。で、結局本を買って読んでいる。論文はストップしている。セザンヌ不思議な磁力を持つ作家なのだ。論文はどうするのかって? 後は野となれ、山となれの心境なのだ。

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悩みの素はマティス

 修了論文のテーマは「現代アートは何故わからないのか?」第一章はその原因を作った3人の真犯人、セザンヌ・マティス・ピカソを追っている。まずセザンヌの犯行手口は解明できた。次はマティス、色の魔術師と言われた人なので、色に関する犯行を追っているところだ。

 この人長命の人で85歳まで生きた。めでたいことだと思う。それは良いことなのだが、当然作品の数は多い、その上年代によって作風がコロコロ変わる。どうとらえるか?最近は色のことで頭がいっぱいになっている

 「立川ルミネ芸術祭」近隣の美術学校の生徒たちが出品しているらしい。のぞいてみるとお気に入りの作品に投票して欲しいという。投票したのがこの作品。武蔵野美術大学。三年の土田さんの『イノセンス』なにかやさしい作品ということもあるが、モノクロで色がないのが気に入った。

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池上本門寺のお会式

  

 11日の法要に続き、12日、午後2時からの宗祖法要には全国から集まった大勢の参詣者や団参で大堂が埋め尽くす。 午後6時頃より、池上徳持会舘から本門寺までの約2キロにわたって百数十講中、総勢約三千人もの万灯練り行列が池上の町を練り歩き、深夜にいたるまで賑やかな一日となる。

万灯

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 例年は池上通りの万灯練り歩きを見学するだけだが、参道を抜けて階段上にある本堂までいくことにした。参道に通ずる横道を含めて屋台が数百件出ている。立ち止まり禁止なので屋台で飲食するのが難しい。こんなこともあろうかと昼に屋台でたこ焼きと焼きそばを買って家で食べて置いたのだ。大田区に30年以上住めばお会式にどう対応するかのノウハウが身につくのだ。階段を万灯が上っていく様子は圧巻だが、なにしろ立ち止まれないので写真がとれない。

本堂にお参りする人たち

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おもちゃのワンちゃんも練り歩く

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 どこの祭りもそうだが若い女性群の祭りへの参加が目立つ、大声で囃したてている。元気はつらつだ。草食系男子が増えているのもうなずける女性パワーのさく裂ぶりだ。

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60歳のラブレター

 1枚のハガキに夫から妻へ。妻から夫へラブレターを書く。住友信託銀行が2000年から実施しているキャンペーン。応募されたラブレターを一冊の本にまとめ、本にする。今年で9冊目になる。今年は7158通の応募がありその中から151通が本としてまとめられた。その151通の中にわたしが応募したハガキも選ばれた。著作権の関係で内容はここに書くことはできない。わたしの作品はこの本の217ページに載っている。関心のある方は立ち読みしてください。NHK出版から発行されている。

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 応募のきっかけは立教セカンドステージ大学の昨年の後期の授業である。「セカンドステージに役立つ経済と文化」坪野谷教授の授業に教授の長年の友人であるリチャード・ジニエスさんがゲスト・スピーカーとして教壇にたたれた。リチャード氏は日米の文化の違いについて講義されたのだが、その時、例に出されたのがこの「60歳のラブレター」だ。リチャードさんはこの「60歳のラブレター」の英訳を担当されている。講義の最後に「恥ずかしがらずに応募してみませんか」と受講生をけしかけた。

 その声に押されて最初で最後のラブレターを書いた。本になったラブレターを同居人に手渡した。本を読んだ同居人は「うそばっかり書いて」といったがなんとなくやさしい顔つきになっている。坪野谷教授、リチャードさんのお二人の感謝したい。

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異文化、一個、二個?

 立教セカンドステージ大学の後期授業が始まった。「旅と文化」の講義で「あなたにとって旅とは何か?」という問いかけがあった。旅といえば異文化を体験することにつきるのではなかろうか。異文化を体験する達人がセカンドの仲間のYさんだ。香港に旅をしたとき、朝食を地元の人たちが通う食堂でとろうということになった。われわれは苦労してパンと卵料理らしきものを注文した。Yさんはそんなありきたりのものを注文することはない。

 おもむろにメニューをとりあげ、本日のサービスメニューと思われる料理に目をつける。中身はわからないが二行に分かれている。Yさん「これは何?」と尋ねる。ウェイトレスは日本語がわからないらしく困ったような顔をしている。Yさんお構いなしに「これ何?」を繰り返している。異文化体験の達人は相手の迷惑を考えないことが必要なのだ。

 とうとう根負けしたウエイトレスが答え始める。Yさんが上の行をさすと「二個、二個」と言う。下の行の文字を指さすと「一個、二個」という。意味不明である。しかしYさんは理解したようで、「上のやつは二個ついてくるらしい、下を頼むと一個、二個だから三個ついてくるんだ。三個は多いから上の二個を頼もう」と決断する。

 待つこと3分Yさんの前に出されたものは、小さい丸いパンがが一個だけ、いつまでくまってもこれだけだ。

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「そうか、上下がセットになっているという意味だったんだ。一個、二個というのは上下合わせて頼めという意味なんだ」と今度は下の行を指差して注文する。そして出てきたのがこれである。スープらしきものだ。

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 Yさんスプーンで一口食べたまま、「まずい」と叫んでスプーンを投げ出してしまった。「どれどれ」と私が一口飲んでみる。たとえようのない不思議な味がする。Yさん横をむいたたまま、スープをみようともしない。先日注文を失敗したSさんは大喜びである。「Yさん、それ全部飲まなきゃ失礼だよ」とうれしそうに注意している。「異文化体験」いつも危険と隣合わせなのだ。

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